八幡東区・豊山八幡宮の御朱印の種類や値段~「やはた」の地名の由来とは?

福岡県の北九州市というと九州屈指の工業地帯のイメージがありますよね。

特に八幡は歴史の教科書で出てきたと覚えている人もいるのではないでしょうか。

そんな工業の町と深い関わりをもっているのが豊山八幡宮です。

豊山八幡宮について知ると「やはた」の地名の由来を知ることができます。

この記事では豊山八幡宮の歴史や御朱印についてご紹介します。

参拝の参考にどうぞ。

豊山八幡宮の歴史

北九州市八幡東区に鎮座するのが豊山八幡宮です。

お祀りするのは応神天皇・神功皇后・仲哀天皇です。

かつて神功皇后は三韓征伐から帰還すると筑前宇美町に滞在中に御子である応神天皇を出産します。

その後小倉村に行幸した際、岡県主である熊鰐より皇子のお洋服が献上されます。

神功皇后はたいへん喜び、三韓征伐の際に活躍した弓矢をこの地にあった山に奉納し、天下泰平を祈願します。

そしてその山に「豊山」(ゆたかやま)の名称を与えます。

飛鳥時代に入って再び新羅がこの地に侵攻すると、大和朝廷は神功皇后にあやかり海路で敵に立ち向かいます。

すると「我を祀ればこの戦いに勝利をもたらすだろう」という八幡神の声が聞こえ、見事に勝利を収めます。

そのため現在の西本町に八幡神を祀るための社殿を造営します。

そして平安時代に入り、光孝天皇の時代に神託が下り現在の位置に遷座されました。

そのとき豊山と神功皇后の伝説にちなみ、豊山八幡宮という名称で呼ばれるようになったのです。

境内には祇園宮や稲荷神社、天満宮、恵比寿社、貴船社、不老社などの境内社が建ち並んでいます。

また豊山八幡宮はかつて菅原道真公が太宰府に向かう途中で立ち寄ったとされており、境内には立ち寄ったときに詠んだ和歌の句碑と自分の容姿を確認したといわれる姿見池が残っています。

「やはた」の地名の由来とは

明治維新後の日本史を語る上で外せないのが、北九州市にあった八幡製鉄所です。

この「やはた」という地名は、豊山八幡宮を由来とするものです。

1889年に枝光・尾倉・大蔵の三村が「市町村制」の実施に伴い1つに統合されました。

この3つの村の氏神さまが八幡神社であったために「八幡村=やはた」となり、そのままこの地名として残されたためです。

そのまま「はちまん」という名称にならなかったのは、神さまに対して畏れ多いということでしょうか。

神功皇后と結びつきの強い地域ならではの地名です。

豊山八幡宮は安産・子育てのご利益が頂けるパワースポット

豊山八幡宮にお祀りする神さまは神功皇后・仲哀天皇のご夫婦とその子どもに当たる応神天皇、相殿には応神天皇の子どもにあたる皇子が祀られており、親子3世代が同居している形になります。

そのため安産祈願・子育ての守り神としてのご利益を授かることができます。

また幾度も大和朝廷に勝利をもたらした神さまでもあり、勝ち運祈願には最適のパワースポットです。

豊山八幡宮の御朱印

豊山八幡宮の御朱印は1種類です。

社名と朱印が入るシンプルなデザインの御朱印です。

初穂料は300円です。

御朱印は社務所で頂くことができます。

豊山八幡宮オリジナルデザインの御朱印帳は現在のところありません。

アクセス方法

豊山八幡宮は境内に車を駐車することができます。

最寄りのインターチェンジは「大谷IC」です。

公共交通機関を利用する場合、JR九州「八幡駅」で下車、徒歩で約5分です。

西鉄バスを利用する場合、「春の町」バス停下車、徒歩で約2分です。

まとめ

豊山八幡宮についてご紹介しました。

周辺の地名である「やはた」は3つの集落が合併して村を形成する際、それぞれに八幡神社を氏神としていたため「八幡」からとって名付けられました。

神功皇后が弓矢を奉納したという伝説が残る丘に神社は鎮座しています。

地名や逸話などから神功皇后との結びつきに想いを馳せることができるパワースポットです。

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